composition 展覧会構成
ルノワール美術館(カーニュ)
第1章ルノワールとの出会い
日本に初めてピエール=オーギュスト · ルノワール(1841-1919)の作品がもたらされたのは1890年代、購入者は明治期にヨーロッパで活躍した美術商 · 林忠正(1853-1906)であったといいます。残念ながら、林のコレクションは彼の晩年から死後に国外で競売に付されて散逸しますが、ヨーロッパの新しい美術動向に対する関心が高まりつつあったこの時代、その後も同地に渡った人々により、ルノワールの作品は少しずつ日本へともたらされることになります。
1900年代、すでに本国で画家としての地位を確立していたルノワールは、関節リウマチなどの深刻な持病を抱えながらも、未だ旺盛な制作活動を続けていました。その作品は、フランスに留学しルノワールに傾倒した梅原龍三郎( 1888-1986 )や山下新太郎(1881-1966)ら若き画家たちや、ヨーロッパの美術を日本に紹介したいと志を抱いた松方幸次郎( 1866-1950 )をはじめとする実業家たちによって入手され、日本へと届けられます。こうして海を越えて日本にやってきた作品は、展覧会をはじめ、雑誌、新聞記事でも取り上げられ、遠地フランスの画家ルノワールの存在は、まさに現在進行形の美術動向として、国内でも徐々に知られるところとなっていくのです。
本章では、最初期に日本にもたらされたルノワール作品を、画家や作品について言及した雑誌記事などの資料とともにご紹介し、日本がルノワールという画家と出会った当時の気運を再現します。
第2章ルノワールと日本の洋画家たち
1908(明治41)年、留学でフランスに渡った梅原龍三郎は、リュクサンブール美術館で目にしたルノワールの作品に強い衝撃を受けます。翌年、南仏の町カーニュ=シュル=メールにルノワールを訪ねた梅原は、老大家となっていたルノワールにあたたかく迎え入れられ、二人は国を超えた師弟関係を結ぶことになります。ルノワールの教えに奮い立ち、その芸術に大いに学んだ梅原。しかし帰国後には偉大な師と自らの目指す表現との間で揺れ動き、模索の時期を過ごします。やがて梅原は独自の様式を確立し、日本洋画壇の重鎮として活躍しますが、晩年の作品に見られる豊かな色彩感覚には、その芸術の根底にあり続けた、師ルノワールの教えを感じ取ることができるでしょう。時を同じくして、梅原を介してルノワールと知り合った山下新太郎や、実業家 · 大原孫三郎(1880-1943)に進言してその作品を買い求めた満谷国四郎(1874-1936)、また日本に招来した作品を展覧会で目にした中村彝(1887-1924)らも、やはりその芸術に大きな影響を受けたといわれます。
本章では、ルノワールに触れた日本人洋画家たちの作品を紹介し、彼らがルノワールの芸術から何を感じ、何を学び、そして自らの制作にどのように受け入れたのかを、彼らの作品を通して概観します。
第3章印象派の時代
1874年、パリにあった写真家ナダール(1820-1910)のスタジオで「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社展」、世にいう「第1回印象派展」が開催されます。アカデミックな絵画様式や保守的なサロン(官展)に反発した画家たちによる、無鑑査の展覧会でした。ルノワールはシャルル · グレール(1806-1874)のアトリエで出会った仲間たちとともに展覧会に参加。大胆な筆致と明るい色彩で移ろいゆく自然の様子を捉えた彼らの作品は賛否を呼び、批評家ルイ · ルロワ(1812-1885)の揶揄から「印象派」と呼ばれるようになります。ルノワールは中心メンバーとして1877年の第3回展まで参加したものの、以降は経済的な安定を求めてサロンに応募し、入選を重ねるようになります。有力な支援者も増え画家として人気を得たルノワールは、印象派の活動から次第に距離を置くようになりますが、伝統的価値観を打破して独自の表現を探求する精神は、その芸術の中に生き続けます。その後、展覧会をめぐる参加者たちの方向性の違いなどから、1886年の第8回展をもって幕を下ろした印象派展。しかし印象派の画家たちがサロン中心主義のフランス美術界に投じた一石は、やがて日本を含めた世界中の美術界をも巻き込み、その歴史を大きく変えていくことになるのです。
本章では、ルノワールにも大きな影響を与えたクロード · モネ(1840-1926)、アルフレッド · シスレー(1839-1899)、カミーユ·ピサロ(1830-1903)ら個性豊かな印象派の画家たちの作品をご紹介し、彼らが世界に提示した新しい美術の諸相をご覧いただきます。
第4章そして、わたしたちのルノワールへ
柔らかな色彩と筆致で描き出された豊麗な裸婦、流行の装いに身を包んだ可憐な少女たち、そして何気ない日常を謳歌する人々。現在、ルノワールの作品は日本各地の美術館に収蔵され、わたしたちはその作品を気軽に目にすることができます。例えば熊本県立美術館の所蔵する《胸に花を飾る少女》(1900年頃)は、開館して間もない昭和54年度に購入され、美術館の「看板娘」として長らく地域の人々に親しまれてきました。
日本に美術館が多く設立された戦後、昭和から平成期にかけて、高度経済成長やバブル経済の追い風のもと、日本には多くのルノワール作品が集まります。さらに全国各地でルノワールの名を冠した展覧会が開催され、その作品は雑誌やテレビ、広告などの様々なメディアでも取り上げられるようになります。今や「大衆化」されたルノワールは、日本で最もポピュラーな西洋画家の一人としての地位を築き上げていくのです。
なぜ、わたしたちはルノワールとその作品に親しみを感じるのでしょうか。本章では、日本各地の美術館、企業、個人のご所蔵家の皆様のご協力のもと、国内に所在するルノワール作品を一堂に集めてご覧いただきます。わたしたちが様々な場面で目にしてきた「ルノワール」を通して、ルノワールという画家とその作品が日本に浸透していくまで、いわば「わたしたちのルノワール」となるまでの道のりを辿ります。